【書評】深谷賢治 著『双曲幾何』

2024.05.13

本書は、日本を代表する数学者である深谷賢治氏による双曲幾何の入門書です。

双曲幾何は、リーマン幾何、複素解析、マンデルブロー集合のようなフラクタル(複素力学系)、基本群、保型関数、リー群、3次元多様体など、数学の様々な分野と関係しています。

本書は、数学の初心者向け岩波講座『現代数学への入門』の1分冊として1996年に刊行され、2004年に単行本化、そして今年の1月にソフトカバーの新装版が刊行されました。

初学者向けの講座にも関わらず、単独の講義として取り扱われることの少ない双曲幾何が選ばれた背景としては、双曲幾何そのものを教えたいわけではなく、代数、解析、幾何などの諸分野が有機的につながっていることを双曲幾何を通して横串で体験させることが狙いではないかと思います。 そのため、本書は複素関数論、群、幾何等が入り乱れていますが、初学者でも通読できるよう、前提知識をほぼ仮定せず、self-containedかつ具体的に書かれており、最小限の知識だけで最大限に面白い結果に到達できる親切設計となっています。

各章の紹介

各章を簡単に紹介します。新装版を斜め読みしながら、忘却の彼方の記憶を呼び起こしつつ書いているので、いろいろ間違えている可能性があります。

導入部の「第1章:1次分数変換」では、複素関数論的な1次分数変換 φ(z) = (az+b)/(cz+d)(z ∈Z) 及び群とその作用を学びます。

この2つの道具は、本書の至る所で手をかえ品をかえ登場します。

本書の複素関数論では、コーシー積分も留数定理もローラン展開も登場せず、代わりに、初学時には素通りしがちなリーマン球面や等角写像などが活躍します。

「第2章:上半平面とポアンカレ計量」から双曲幾何を様々な切り口で学びます。

双曲幾何は、ユークリッド幾何の公理を使った定義において、平行線の公理を否定して構成される幾何であり、非ユークリッド幾何とも呼ばれます。ただし、公理のままでは数学的に扱いにくいです。

空間Xとそこに作用する群Gの組(X,G)をモデルと呼び、このモデル間で適切な写像がある時、幾何学は同じであるとみなせます(エルランゲン・プログラム)。 本書では、双曲幾何のモデルの中から、上半平面モデル円盤モデル双曲面モデルの3モデルを用い、ユークリッド幾何との違いを学びます。同じことを3回やっているとも言えます。

第2章は上半平面モデルと円盤モデルです。

上半平面に双曲的な2点間の距離(ポアンカレ計量)を導入したのが、上半平面モデルです。 第1章で学んだ1次分数変換は等長変換を与え、この等長変換群は推移的に作用するため、群の作用で不変な性質を調べたい時には、なにか1点で調べれば十分です(pp.45)。サラッと書かれていますが、この考え方は非常に重要です。

単位円板の曲線にも同様の議論を展開したのが、ポアンカレ円盤モデルです。 この2つのモデル間には、1次分数変換の等長変換が存在し、同じ幾何であるとわかります。

更には、1次分数変換が等角写像(共形的な写像)を与えるといった、複素解析との結びつきも学びます。

「第3章:双曲面モデル」は特殊相対性理論でも現れる双曲面モデルです。このモデルは、3次元のベクトル空間上にローレンツ(ミンコフスキー)計量と呼ばれる内積を定めたものです。

前章と同じく、距離空間であること、等長変換の存在、測地線などを定義に立ち返って計算しながらチェックします。また、双曲線関数(sinh, cosh等)を用いて、双曲幾何版の3角法も学びます。

「第4章:タイル張り、離散群、ガウス‐ボンネの定理」は様々な発展的な話題が扱われています。

双曲面上の三角形の面積は3つの内角から求まること、さらにこれを一般化し、双曲的な多角形版のガウス-ボンネの定理を証明します。ユークリッド幾何では、3辺が等しい三角形は合同でした。双曲幾何では3角が等しいと合同になり、当然ながら、面積も等しくなります。曲率と大域的な位相的性質の関係を示すガウス-ボンネの定理は、古典的で素朴な形で証明するだけでも本一冊必要です。うまく前提条件を設定することで、わずか数ページで鮮やかに導出しています。

その後は、合同な図形で平面を埋め尽くすタイル張りを起点に、一様かつ離散的な自己同型群の部分群は平面のタイル張りを定め、このタイルが基本領域となること(定理4.25)等を駆け足で学びます。

まとめ

本書1ページ目の冒頭でいきなり登場したフシギな1次分数変換や群とその作用は、姿を少しずつ変えながら本書全体の至る所で登場します。

pp.66-67では、数学者ポアンカレが馬車に乗る瞬間に閃いた素晴らしい発見、すなわち、「非ユークリッド幾何(双曲幾何)と複素関数論という、重要なしかし一見無関係な2つの数学の分野に、思いもよらなかった関係」についてのエピソードが紹介されています。"connecting the dots"ですね。代数(群)入門や複素解析の講義を受けたけれども、何が嬉しいのか、どう応用するのか、具体的なイメージがわかない人にピッタリの一冊となっています。

なお、双曲幾何は、"Poincaré Embeddings for Learning Hierarchical Representations"(2017, Meta社) など、AI分野でも活用されているようです。

ジム・サイモンズについて

著者の深谷賢治氏はニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校(SBU)サイモンズ幾何物理センターの教授(permanent member)です。 同センターは、SBUの数学科の教授を長年勤め、チャーン・サイモンズ理論といった大きな数理物理的業績や、その後、最も成功したヘッジファンドの一つであるルネッサンス・テクノロジーズを起こし、「クオンツの帝王」としても知られるジム・サイモンズ氏によって設立されました。

サイモンズ氏は、2024年5月10日に亡くなりました。ご冥福をお祈りします。

参考