なぜAIだけでは"熟練の勘"を継げないのか──身体知はセンサーで、脳内知は問いで獲る

なぜAIだけでは"熟練の勘"を継げないのか──身体知はセンサーで、脳内知は問いで獲る

ベテランの判断には、温度・匂い・音・感触といった「感覚」が混ざっている。AIは言語を受け取る装置なので、感覚そのものは真似できない。身体知を残すにはセンサーやログが要り、脳内知は実ケースで発火させて聞くしかない。暗黙知抽出の5経路を地図にして、両者のクロスで獲る設計を整理する。
2026.08.18

「ベテランの勘をAIに継がせたい」という相談を受ける。だが製造の現場に入ると、その"勘"の中身は、しばしば温度・匂い・音・手の感触だったりする。ここで正直に言っておきたいことがある。AIだけでは、感覚は真似できない。 LLMは言語を受け取る装置であって、鼻や指を持っていないからだ。

ではあきらめるのかというと、そうではない。身体知はセンサーやログで獲り、脳内知は実ケースで発火させて聞く。 熟練の判断は多くの場合その両方が絡んだクロスなので、片方だけの道具では取りこぼす。本記事では、暗黙知に挑む手法を5つの経路として地図にし、どこをAIで、どこをセンサーで獲るのかを整理する。

なお、暗黙知が「脳内知」と「身体知」に分かれるという前提は、以前の記事で書いた。本記事はその先、では感覚の方はどう獲るのかの話である。

熟練の判断には、感覚が混ざっている

現場のベテランに「なぜ止めたのか」と聞くと、「音がいつもと違った」と返ってくる。異音、振動、匂い、温度、手応え。これらは本人の中では明確な信号だが、外からは見えないし、本人も言葉にしにくい。

さらに厄介なのは、感覚そのものより**「その感覚を、どう解釈して、どう分岐したか」**が価値だという点だ。同じ異音を聞いても、新人は「気のせい」と流し、ベテランは「これは軸受け側だから今日中に止める」と判断する。つまり実務で効いているのは、身体知(感覚の入力)× 脳内知(解釈と分岐)のクロスである。

人類は暗黙知にどう挑んできたか(5つの経路)

暗黙知を取り出す試みは、大きく5経路に整理できる。それぞれに固有の限界がある。

  • ① 自己申告:インタビュー、発話思考、逆設問 → 限界:行動が見えない
  • ② 行動計測:映像、視線、センサー → 限界:判断が見えない
  • ③ 共体験:徒弟制、OJT → 限界:スケールしない
  • ④ 痕跡逆算:ログや模倣学習から推定 → 限界:大量のデータが要る/個別性が出ない
  • ⑤ 集団創発:デルファイ法、ピアレビュー → 限界:個人の深さが出ない
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注目したいのは①と②がちょうど裏返しの限界を持っていることだ。聞くだけでは行動が見えず、測るだけでは判断が見えない。感覚が絡む熟練の判断は、この二つの穴の重なるところに落ちている。

なぜ「AIに聞く」だけでは感覚が取れないのか

理由は2つある。

1つ目:AIは言語しか受け取っていない。 テキストや音声で入力される限り、モデルが扱えるのは「言語化された感覚の報告」であって、感覚そのものではない。「ちょっと焦げた匂い」という6文字と、実際に立ち上る匂いの間には、埋まらない差がある。

2つ目:本人も言語化していない。 熟練者は選択肢を比較して選んでいるのではなく、状況が見えた瞬間に一手目が出ている(認知心理学者ゲイリー・クラインのRPDモデル)。判断が自動化されているため内省では取り出せず、「なぜ?」と聞かれて出てくるのは後付けの説明になりやすい。感覚由来の判断は、とりわけこの傾向が強い。

だから「ベテランにインタビューしてAIに入れる」だけでは、感覚の層がまるごと抜ける

では、どう獲るのか──センサーと問いを組み合わせる

現実的な解は、経路を組み合わせることだ。

身体知の側は、人間の感覚ではなく機械で獲る。 異音は振動・音響センサー、温度は熱電対やサーモ、稼働は設備ログ。人が「なんとなく」で見張っていた異常検知を、計測に置き換える。ここはAIの言語能力ではなく、センシングとデータ基盤の仕事である。

脳内知の側は、実ケースに発火させて聞く。 「なぜ?」ではなく、「新人に任せるなら、まず何を見ろと言いますか?」のように、実際の案件・実際のトラブルを起点に問う。判断が割れた難しいケースほど、その人固有の分岐が現れる。この考え方は、軍事指揮・消防・救急医療などで約40年の実証があるCDM(Critical Decision Method)の系譜にある。

そして両者を突き合わせる。センサーが「その時、温度が3度上がっていた」を示し、本人が「それで押した/待った」を語る。片方だけでは意味を持たないデータが、重ねた瞬間に判断として立ち上がる。

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現場に持ち込むときの制約

設計として正しくても、現場で回らなければ意味がない。実際に製造業の現場を見ている社内メンバーと議論して挙がったのは、次のような制約だった。

  • 端末が使えない:作業エリアでPCやスマートフォンの持ち込みが制限されている
  • 入力に慣れていない:オペレーターがチャットUIを日常的に使う前提を置けない
  • 人が入れ替わる:離職・交代が速い現場では、そもそもマニュアルの整備が追いつかない
  • データが遅い:稼働報告が紙やExcelで、反映は翌日。リアルタイムの判断に使えない

したがって「AIチャットを配って終わり」にはならない。計測は機械側に寄せ、人に頼む入力は極小にする——たとえば週に一度、数分の音声で答えてもらう程度に抑える——といった設計が要る。継続して入力してもらう仕組みづくりのほうが、モデルの精度より効くことすらある。

ghoostが得意なところ、そうでないところ

正直に線を引いておく。ghoost(ゴースト)は、言語化されていない判断を、本人と一緒に引き出して組織に残すサービスだ。PC上の業務やオフィスワーク——営業の見極め、設計の方針、審査の勘所——のように、判断が言葉に落ちる領域では強い

一方で、機械の異音や温度変化そのものを検知する用途は、ghoostの守備範囲ではない。そこはセンサーとデータ基盤の仕事であり、無理に言語モデルで代替すべきではない。製造現場の暗黙知に取り組むなら、計測(身体知)とghoost(脳内知)を役割分担させるのが素直な設計になる。

「デジタルツイン」という言葉も注意が要る。設備の物理的な再現を指す文脈と、人の判断の再現を指す文脈があり、期待値がずれたまま話が進むことが多い。最初にどちらの話をしているのかを揃えるだけで、プロジェクトの成功率は変わる。

よくある疑問(FAQ)

Q. マルチモーダルAIなら匂いや音も扱えるのでは?
A. 音や画像は入力できるようになってきたが、それは「センサーで獲ったデータをAIに渡している」ということだ。つまりセンサーが不要になるわけではない。獲る手段と、解釈する手段は別だと考えるのが適切。

Q. ghoostとは?
A. ベテランや"あの人"の、言語化されていない判断を、本人と一緒に引き出して組織に残す、本人の判断を再現するAIエージェントサービス。文書を貯めるのではなく、本人から判断を引き出す。

Q. 製造業では使えないということ?
A. そうではない。判断が言葉に落ちる領域——不具合時の切り分け方針、優先順位の付け方、取引先とのやりとりなど——には効く。設備の異常検知は計測側に任せ、役割を分けて組み合わせるのが現実的。

まとめ

  • 熟練の判断には感覚(温度・匂い・音・感触)が混ざっており、AIだけでは感覚そのものは真似できない
  • 暗黙知の5経路のうち、①自己申告は行動が見えず、②行動計測は判断が見えない。感覚を伴う判断は、この両方の穴の重なりに落ちる。
  • だから身体知はセンサーとログで獲り、脳内知は実ケースで発火させて聞く。両者を突き合わせてはじめて、判断として残る。

「あの人の判断を組織に残したい」という課題があれば、ghoost サービスページものぞいてみてください。

参考(背景)

  • M. Polanyi『暗黙知の次元』(The Tacit Dimension, 1966)
  • 野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』(1996)
  • G. Klein『Sources of Power』(1998)/Klein, Calderwood & MacGregor(IEEE Trans. SMC, 1989)/Crandall, Klein & Hoffman『Working Minds』(2006)

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